小沢健二「流動体について」に思うこと

流動体について

最初にこの曲を耳にしたのは、フジロックへの出演が決まったということから、youtubeでPVを確認したとき。

その段階ではなんだかいい曲、くらいの感覚だった。

2回目はフジロック2017。

ホワイトに入場規制がかかり、ギリギリホワイトに入れない位置でしか聴けなかったのだけれど、それでも、押し寄せてくる色々が相当なものだった。

オザケンを知ってから干支ひとまわりほどの間に自分に起きたこと、90年代の楽曲が連れてくるあの時代の空気。まともにライブをみてないのに、なんとも幸せな陶酔にアテられてしまった。iTunesに入っているいくらかのアルバムでは満足出来ず、流動体についてのCDをポチり、仕事中はyoutubeでひたすらオザケンな毎日。

86年生まれの僕にとっては、オザケンがNYに飛んだ98年前後は12歳。

当時オザケンなんてものは全く知らず、意識して彼の曲を聞くようになったのはもっと後、2006年前後。「毎日の環境学」がリリースされたころだ。

学生だった僕は、なんとなく学校も楽しくなく、高校時代の友人と日々酒を飲みゲロを吐き音楽を聞きちょっと楽器を弾いて、といういかにもな生活を送ってた。

その時分に、たしか友人の家にあった「LIFE」だったか、フリッパーズのなにがしかのアルバムからオザケンに興味を持った気がする。ミッシェル、ブランキー、ゆらゆら帝国なんかに入れ込んでいた僕にもそれは、「なんだかよくわからんけどいい感じ」な音楽としてすっと入ってきた。それから、フリッパーズギターはかつて小山田圭吾と彼が組んでいたバンドであること、「愛し愛されて生きるのさ」が彼の曲であること、ブギーバックの人であること、なんかを知る。

ここで「流動体について」の歌詞の大筋を勝手に解釈してみる。

 

羽田に着く飛行機の中で物思いに耽っている。もし間違いに気づかず他の人生を選んでいたら、自分はどんな生活を送っていただろう。そんなことを思うけど、この宇宙の中で自分のちっぽけな決断が良いか悪いかなんてわかりっこない。それでも人の意思によってこの世はできていて、人の意思や言葉が世界を変えていく。良いか悪いかわからない、なんて言ったけど「誓いは消えてないか?」「深い愛をいただけているか?」そんなことがいまの自分にとって大切な物だと思ってる。それでも自分自身、他人、この世界は流動体のように移ろい続ける。掴み様のない蜃気楼のようなところで僕たちは生きてる。なにひとつとどまることがないこの宇宙の前に立ち尽くしながら、いまの自分の幸福を噛みしめる。

 

乱暴だけど、大意としてこんな印象。

散文的で、詩自体が「流動的」に感じる。

素敵だと思うのは、宇宙の中でよいことなんて個人にはわかりっこない概念を持ち出しながら、先に出てくるのは「間違いに気づいていなかったのなら」というところ。

自分も、他人も、この宇宙に確実なものなんて何ひとつない。それでも都市=神ではなく人の生きる世界、を変えるのは「強い気持ち」なのだと。確実なものは何ひとつないのに、自分は「間違っていた」と言い切ることが、逆説的にいまの幸福をほのかに浮かび上がらせる。

 

この曲を聴いてから「ある光」の良さがやっといくらか分かった気がする。

 

JFKへ向かった彼が羽田に降り立ち、完全復活の宣言と思える…なんて思わせつつ、簡単に裏切ってくれるのが彼のやり方だったりして、流動体リリース後に一度ファンを裏切った的な話もどこかで目にした気がする。

 

テレビ出演時、オザケンは「このテーマは居酒屋でかかるようなものかもしれません。それをアップテンポで…」というようなことを言っていた。

たしかに青年期を過ぎた男性が選んでいなかった人生に想いを馳せる、なんてのは歌謡曲の常套句だ。同じことでも王子がやるとこうなるのか、てのもまた驚きだったりするのだけれど。

 

この甘美な人間賛歌にもう少し浸ったら、手をつけていない彼の過去作を楽しみたい。

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